裏の常識と表の常識 / オカルト的なことと物質的なこと (2017/12/03)

本当のことだけれど言えない、ということがあります。
というより「本当のこと」というのは同時に「言えないこと」でもあります。
「言えること」というのは「他人と共有できること」ということです。
他人と共有できることだけが本当のことではありません。
しかし言ってしまったらそれは「他人と共有していること」に「変化」してしまいます。
そして本当だったはずのことが本当のことではなくなってしまう。




いわゆる「オカルト的なこと」と、いわゆる「普通のこと」があります。
宇宙の真理を全て語り尽くそうと思えばオカルト的なことを避けて通ることはできません。
しかしそれはいわゆる「普通のこと」ではありません。「普通のこと」ではないので人に話すことはできません。
そうしたことを人に話せば、おかしなこととして否定されるか、または「普通のこと」に変化してしまうかどちらかです。
否定される方がまだマシです。少なくともオカルト的なことはオカルト的なことのままであり、歪むわけではないからです。
それよりも、否定されず受け入れられて、「普通のこと」に変化してしまうようでは困ります。
語って受け入れられた瞬間、語られた内容自体は言葉の背後のはるか彼方へ退いてしまう。するとまた別の言葉を探さなければならない。
しかしどんな言葉を見つけても同じことの繰り返しです。
そもそも話すことのできることではないのでした。
追いかければ追いかけるほど真理は遠のくばかり。

人に話すというのは人と共有するということです。
人と共有するというのは物質になるということです。

物質とは何であったか?
物質とは人と共有できるもののことなのでした。

この世は物質の世界です。
生きて他者と関わるというのは人と人の間に物質を作り出して共有するということなのでした。

いわゆるオカルト的な話は物質的なものを超えた領域の話です。
しかしそうした話を他人と話し合うというのは原理的に不可能です。定義により不可能です。
なぜなら人と話すというのは物質化行為に他ならないからです。

「私たち」は今、1つの自己と複数の他者という形式で存在しています。
この形式の上で、何かを語り合うというのは、つまり何かを共有するということであり、物質化行為ということです。
そのような形式で、宇宙空間に地球という物質の舞台を形成し、この世という物質の社会を共有して生きている。
それが今の「私たち」の形式です。
その形式の上で語ることのできることと、不可能なことがある。
その形式の上で共有できることと、不可能なことがある。

目に見えるもの、物質的なものがこの宇宙の全てではありません。それは明白なことです。
しかし、今は「それ」を「それそのもの」として語ることのできる時期・状態ではありません。
私たちは今、1つの自己と複数の他者という形式で存在しています。今はそういう時期・状態です。
今できるのはこの状態の上でできることです。
この状態の上でできることを今しなければなりません。

目に見えるもの、物質的なものがこの宇宙の全てではありません。それは明白なことです。
目に見えないもの、物質的ではないもの、いわゆるオカルト的なもの。
そうしたことを抜きにして宇宙の真理を語ることはできません。
しかし今はその時期ではないのでした。
今は「私たち」は1つの自己と複数の他者という形式で物質を共有して存在しています。
この限定された条件の上で活動しなければならないのでした。

限定された条件の上で活動するのはいかにも窮屈なことです。
限定された認識の上で語り合うのはいかにも頼りないことです。
しかし今はそうするしかありません。今はその時期です。
この条件の中でできることをして、次を目指す。それが今の「私たち」の時期です。